鶏声86号特集から「原発と私」

2011年11月05日(土) 鶏声編集委員 増田

原発と私

獏原人村 風見 正博

原発の事故、当然一生忘れられないことになるだろう。

鶏を飼って生計をたてている者としても一言残しておきたいと思います。

3月11日当日はコジマ電気の二階にいて、最初は、おっ来たな!という感じだったけど、いつもならすぐおさまるはずなのにだんだん強くなる。広いフロアなのですがるところもない、そのうちショーケースあたりから煙があがり始めたのでなんの煙かはわからないけど、これはもしかしたらだめかもしれないと思った。まわりを見回すと女子高生が携帯で写真を撮っている。

とにかく玉子の配達を終わらせて早く帰ろう、そう思っていつも通る国道399は絶対崖崩れで通れないだろうから遠回りでも国道6号で帰ろうっとおもったのが誤算で後からわかったことだけど399は大丈夫だった。6号は海沿いのあたりでやっぱりあとからわかったことだけど津波でやられていて不通で、ちょっと内陸の山麓線でかえるが逆にこちらは道路の陥没があちこちあって大渋滞。

車のなかでラジオを聞いていると、第一原発の電源がすべて喪失して今、電源車が東京から出発したという。なに!いまから東京出発ではいくら早くても何時間かかかる、間に合わない!終わりだ!

早く帰るはずが遅くなって帰ると、となりの愛ちゃん一家はこれから避難するという。もしかして一生帰れないかもしれないので大事なものを車に積むのにもまだ寒い夜ではむりだ、原発から25Kmくらいは離れてるので最悪でも朝まではもつだろうと判断して、その日はやすむ。R-DANと言うガンマ線検知器をチェルノブイリの事故直後にこんなこともあろうかと購入していたので、その後この検知器が命綱の役割をはたしてくれた。この時点では値の異常はない。ギター、パソコン、ガスコンロ、着替えその他大事そうなものをバネットバンに積み込んで、といっても意外と満載にはならなかった。その日は同じ県内の三春の友人宅に、テレビで一号炉の爆発をみてこれはいよいよだめだな、と判断して最後の餌かも知れないと自宅に餌やりに一旦帰る。餌箱に入るだけ餌をやる、水は沢水を流しっぱなしにしているので詰まったりしなければ餌が切れても水さえあれば10日くらいは生きているはずだ、この時点ではまだ線量は上がっていない。がんばって生き延びてくれと祈りながら今度は女房の実家の茨城県の坂東市に心配して駆けつけてくれていた息子と三人で向かう。

その後相次ぐ爆発で線量は坂東市でもふだんの6倍くらいに上がる。このR-DANという検知器はガンマ線をカウントしてるだけで一分間で計測されたガンマ線の数をcpmで表示しています、シーベルトはガンマ線やベータ線を人体に影響をあたえる度合いに変換したものです。その後シーベルト表示されるのも買ったのですが、とりあえずcpm表示で書きます。

普段の通常値は17〜20くらいでたまに30になることもあるくらいです。爆発の後坂東市で120くらいになったのでおどろきました。

とにかく気になってるのは鶏のことばかり。東電で原子炉の設計にかかわっていた友人がいるので、電話して相談すると炉は岩盤の上にあるので水蒸気爆発はないだろうと言う。みんなに帰るなと言われていたし、毎日じりじりしていたが、19日に餌やりに帰る決断をする。俺一人で帰るつもりだったけど、俺ひとりでは何無茶するかわかないからと妻と息子(成人している)も一緒に帰ると言う。東北自動車道はまだ交通止めだったけど事情を話したら通してくてた。

通るのは自衛隊、タンクローリー、関西ナンバーの大型トラック、消防車、災害支援車くらいでまるっきりすいている。坂東市は平常値の20cpmくらいだったけど那須でなんと200(cpmは省略します)えーっ、さらに郡山あたりで400、ここでこんなにたかくては獏(自宅の通称)ではどうなちゃうんだ!ところが磐越道に乗り換えて小野で下りるとなんと60くらい、えっ、ちょっと喜んでさらにすすんで荻というところあたりからまた上昇、いよいよだな!緊張感がはしる。川内村に入る峠ではついに1000!それまでは後部座席の妻に値を言ってノートにつけてもらっていたけど言えなくて無言でマスクをした。妻のほうも何も言わない。ここでこんなに高いんでは獏には帰れないかもしれない、そのときは標高の高いところは線量も高いとか知らなかった。

ところが獏に帰ってみると200くらい。もちろん高いんだけど途中に非常に高い所を体験しているので少し安心。妻には家の中で必要なものをだしてもらい、俺と息子でまたまた入るだけ餌をやる。鶏は腹はすかせていたけどやたら元気、一羽も死んでない。卵は残念だけどすべて廃棄。しかたない。自家用に少し持ち帰る。その間誰にも会わない、SFの世界。留守の友人宅をまわって軽油や灯油をもらう、ジーゼル車はいざというとき灯油でも走るので燃料不足にはあまりこまらなかった。帰りは常磐道で帰る。いわき市の小川というところまで下山してようやく昼飯を食べた。

その後3・4日に一回くらい餌やりに帰った。高速で片道約4時間。

ヨウ素は消えて線量も下がってきたので4月9日に一応獏に戻る。

卵は半断食状態だったので全然産んでない。無収入状態。約一ヶ月休んでいたのですが、幸い養鶏会のほうから支援卵が届く、当初気が引けたがありがたく他人の卵をもらい販売、もちろん熊本の玉子です!と言って買ってもらいました。3・4回送ってもらいました。ありがとう!

津波の被害や原発のせいで引っ越してしまった人、放射能を心配してやめてしまったお客さんもいたけど、買ってくれる人も多く意外だった、でもそれはまだ放射能の知識があまりなかったからみたいで、じょじょにやめていく人が増えていく。ただ逆に支援というか、新しいお客もできてきた。

今までいわき市の個人宅に配達がほとんどだったけど、遠方からの注文もきたりしてそれなりに売れる。東京方面のお客さんが自主的に横浜の同位体研究所でうちの卵を検査にだしてくれて10ベクレル以下というお墨付きをもらい、それいらい一応安心して販売してます。それまでいわゆる放し飼いで午後2時の餌やりのあとは小屋の戸を開けて自由に野山に放していたのですが、あれいらいずっと小屋の中です。

餌は室内に保管してあるし、水も検査してもらったけど不検出だったので卵には出ないとおもってはいたけど、実際に検査で10ベクレル以下ということで安心しました。青草はスーパーでキャベツの外葉などをもらう。

ところがいったん30Km内というレッテルを貼られてしまうと、検査で出ないとかなんとか言っても無駄でお客さんと議論や喧嘩をするわけにもいかないので、不安だから止めますといわれればそれまでです。結局今までの半分くらいに減ってしまったけど、考えてみればそれでも買ってくれる人がいるのはありがたいことだな、とつくづく思います。

やっぱり長年の信頼関係がものをいうのかな?とか思ってます。

小型のパワーショベルを持っているので少しづつ土を取って徐染をしてます。一年くらいやれば一応農場(4町歩)ほとんど全部徐染できるかな?と思ってます。出た土は宅地造成してます、希望者にはお譲りしますよ?

 

収入は半分以下になってしまったけど、税金など免除になったり、ソーラー発電に切り替えたりしたので光熱費も減ったりで生活はあまり変わりません、お客さんが減ったのでそのぶん配達が少し楽になったりしました。喜んでる場合ではないのですが。

獏というところには35年前に入植して養鶏は25年くらいやってきました。

電気もガスも水道も電話も道も近所もなにもない山奥で、だからこそ良い環境が残っていてそれが好きですべてをかけて自給自足をめざして開拓してきました。3人の子育てもしました。自分にとってはここ以上のところは絶対にないです、機関銃で脅かされるかしないかぎりは去るつもりはありません。

そんなところを東電に犯されてしまった、あのころ山桜も満開に、しかし放射能で汚染されてしまったという思いがその美しさを楽しめなくなってしまった。東京電力に心まで奪われてしまったのか!

東電にこころまで奪われてたまるか!

なんとしても自分自身のこころをよみがえらせなくては。

山のイノシシやカラスはどうだ、いつもと同じじゃないか、なにも気にやんでなんかいない。もちろん知らないからだけど、だったら俺も身を守るための知識としてだけ知って、こころまで届けなければいいんじゃないのか?自然に責任があるわけじゃなし。そんな器用なことできるのか?

そんなこと考えてるうちに、不思議に美しが少しずつもどってきた。

最初汚染されてしまった、という感覚だったけど、毎年獏で8月の満月にやる満月祭のセレモニーの挨拶のときに、ふと汚染されたという感覚から汚染してしまって申し訳ないという感覚に変わった。

東電の責任、政府の責任から、同じ人類である兄弟のあやまちに共に責任を感じた。

あやまちはまだまだ繰り返されることだろうとは思うけど、そのことを自覚し地球と共に生きていこうと誓った。

 

現在の獏原人村の放射線量です。

室内0.35μSv/h

屋外0.6μSv/h

徐染屋外0.4μSv/h

 

除染の為に植えたヒマワリですが効果の期待は・・・?

しかしヒマワリは希望のシンボルになっていると思います。

2011年9月16日

 



コメントはこちらへ!

You must be Logged in to post comment.